母の願いを今叶えにいく

今日このごろ

母が亡くなる前に「お墓参りがしたい」と言った希望を叶えてあげることができず、私は母が亡くなってからずっと心の片隅にその言葉が引っかかっていました。母が言った言葉の意味はそのままで、自分の最後を悟り自分の両親に現世での最後のあいさつがしたかったのだとそれ以上でもそれ以下でもないと思っています。ただ私がどうして、その言葉にずっと引っかかりを覚えていたのかは正直自分でもわかりません。

最後に母の願いを叶えてあげられなかったという後悔なのか?

そもそもこれまでのご先祖様への不義理からなのか?その答えがわかったのは、ずっと先のことでした。

遠方へのお墓参り

母の実家は群馬県で、今住んでいる場所から車で4~5時間程度かかります。母は電車で何度か行き来はしていましたが、私が母方のお墓参りに行ったのは20年も前でそれから一度も足を運ぶ機会がありませんでした。叔父や叔母がこっちに来てくれるのを楽しみにするくらいでした。母のあの言葉を叶えてあげることができなかったのは、すでに入院していたこともあり仕方がなかったと納得させていました。
母が亡くなった後も、なかなか群馬まで行く機会をもてずただ時が過ぎていくだけでした。色々なことが目まぐるしく変化していき、立っているだけで精一杯で辛い別れも再度経験し、コロナ禍を経た時でした。両親が亡くなった時も、遠方から飛んで来てくれた叔父や叔母。今度は自分からあいさつに出向きたいとも思っていました。その機会が兄夫婦、妹達と旅行という形で訪れたのです。

急な斜面

車を走らせ向かったお寺のお墓はかなり急な斜面に面しており、付き添ってくれた叔母は高齢なこともあって車で待機。叔父と私たち4人はその急な斜面をお花と掃除道具を持って上がって行きました。天候もよく日差しが強い日だったのでかなり大変で、これでは老いてからのお墓参りは難儀だなぁ…と感じざるをえませんでした。つくづくお墓は亡くなった方の為というより、残された人の為のものとして考えたほうがいいと痛感しました。残された人、後を繋いだ人が故人を思い、手を合わせることが出来る「場所」がある。それはお墓であってもお仏壇であっても、その「場所」に行けば手を合わせれば自然と想いがつながるような、届くような、そんな気持ちにさせてくれるからでしょうか?掃除を終えて、お線香を置き手を合わせ祈りました。短い時間でしたが、こうしてここに無事に来られたことで母が言った言葉と母の思いと共に成就できた気がしました。

思い続けてさえいれば

故人を偲び、命を繋げてくれたことへの感謝と心を整えることは何もお盆という季節行事の時だけでも、年忌法要のお墓参りの時だけでもありません。
いつでもどこにいても相手を思う気持ちがあればそれは尊く合掌していることと同じことなのではないかと思っています。
慌ただしく毎日が過ぎていく現代で「かならず」「やるべき」などという縛りにとらわれすぎなくてもいいのかもしれません。思い続けてさえいれば”その時”はきっと訪れる気がしています。母が亡くなって8年、”その時”が来てやっと霧が晴れ、祖父母へ孫の私が母への感謝を直接伝えることができたことを誇らしく思ったのです。

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